『ラ・シオタ駅への列車の到着』リュミエール兄弟とシネマトグラフ
世界最初の映画?
『ラ・シオタ駅への列車の到着』 監督・製作:リュミエール兄弟 公開:1895年
のこの映画は世界最初の映画といっても過言ではないかもしれない。
なぜならこの映画を作ったリュミエール兄弟、映画の撮影、映写ができるシネマトグラフを開発し、この映画を製作、公開し、のちに映画が「シネマ」と呼ばれる由縁となったからだ。
正確にはトーマス・エジソンがシネマトグラフィの前にキネトスコープを開発しているがそれは一つの装置で一人しかみることができず、大人数の前での上映はできず、エジソンもシネマトグラフが発表されると、映写方式へと転向していった。
当時は大好評だった!?
このように駅に到着する列車と人々が映されただけの映画だが、当時は「動く映像」というだけで大好評だったとか。
1985年12月28日の夜、パリのグランカフェで最初の一般公開が行われ、大変な好評を得たが、彼ら兄弟は単なる科学玩具と見ていたのでのちに大きく発展していくことは予想もしていなかったようだ。
マーティン・スコセッシ監督の「ヒューゴの不思議な発明」では『ラ・シオタ駅への列車の到着の初の一般公開の様子を描いている。
カメラ方向に飛び出すように向かってくる列車から観客は大騒ぎで逃げようとしているのだ。それほどまでに当時の観客からして「動く映像」は新鮮でリアルで物珍しいものだったのだ。
リュミエール兄弟は日本映画の発展にも貢献
京都府の産業、文化のための給付留学生として稲畑勝太郎(当時15歳)が渡欧したさい、ラ・マルティニエール商工業学校でリュミエール兄弟の兄、オーギュスト・リュミエールと同級になった。
帰国した後、稲畑は京都で染色技術者として活躍するが、1896年にリヨンでオーギュスト・リュミエールと再会、その際、シネマトグラフを知り、リュミエールから日本での興行の認可を受けた。
1897年2月15日から1週間、「自動写真協会」の名で大阪の南地演舞場で最初の興行を行った。その後「自動幻画」の名で東京に進出するが、本業が忙しく横田寿之助の紹介で横田永之介に任せて退いた。この横田永之介はのちに日活が設立されると社長に就任することになる。
このようにリュミエール兄弟は日本映画の発展にも大きな影響を及ぼしていたことがわかる。
参考図書:
- 作者: 村山匡一郎,奥村賢,西村安弘,濱口幸一,岡村民夫,石原陽一郎,渡邉大輔
- 出版社/メーカー: フィルムアート社
- 発売日: 2013/07/25
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (4件) を見る
参考作品: